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思考そのもののなかで思考するという行為を産み出すべきであろう。


by hey-yo-happyidiot
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分け入ること。

 「裏の裏は表」だと言うが本当だろうか。それはただ「裏」とか「表」とかいう意味に苛まされているだけではないだろうか。
 たとえば、ロシア人形みたいなものがどうなるのだろうか。裏にはまた表にある同じ顔がその裏の表にはある。しかし、その裏の表の顔と表の顔は違う。それは単に大きさが違うからといってもことたりるだろう。もしそれを同じだと言うならば、赤ん坊の顔と成人の顔を同じだということに変わりはない。確かに、ともに同じ人物だとしても、そこに微妙な差異なるものがあることは認めなければならないだろう。もしそれでも、それは全くもって同じだというのなら、他者に伺ってみるといいだろう。「確かにこれはあなたの赤ん坊のころの顔かもしれないけど、今とは全然違う顔をしているわね。あら、でも、どこか目元とか口元とかに当然面影はあるわね」と言われることになるのではないか。
 これでも不十分ならば、皮膚の裏の裏はまた皮膚に戻るのだろうか。血管の裏の裏はまた血管の表へと戻っていくだけなのだろうか。
 このあげあしをとったような話は、人が「表」とか「裏」とか言うとき、その二面性、あるいは二元性しか見て取っていないのではないかということだ。さらに分け入っていくという作業があってもいいのではないだろうか。表と裏で循環をさせて喜んでいるのなら、循環そのものに分け入っていくことをお勧めする。
 このことは同時に、問題を「善」と「悪」で分けないことへと向かうであろう。問題なのは、「なぜ」それが善と言われ、悪と言われるのかということだからだ。
by hey-yo-happyidiot | 2012-02-16 02:55