これは全くもって個人的な意見ではあるが、
経済的なものはそもそも地域的なものではなかったのか。
いや、それならば、政治的なものも同じようにそうであろう。
そして、その地域という上で最も重要なのは、
場所である。
アダム・スミス、リカードウにせよ、
問題はイギリスにある。
それがいつしか、マクロ経済学やミクロ経済学によって、
経済そのものは普遍化され、
ミクロにいたっては、
ある一定の主観性を前提にして考察されている。
まったくもって、場所は欠如している。
それは、ありとあらゆるものに手を出してゆき、
グローバル化していったからだろうか。
欲望が加速して手につけられなくなって、
ダーウィンの悪夢を観ながら、
フィッシュバーガーを食らい、コーヒーをすするのか。
あそこではこれを補い、そっちではあれを補い、
網羅された都市は気だるい溜息をつくのを嫌がり、
目に見えない何者かに突き動かされているのだろうか。
すべて、それらは必要だったのかという問いは出てこない。
なぜか?
雇用の問題か、
経済の問題か、
人口の問題か・・・。
もはや頼みは世の知の巨人のみ。
しかし、誰も手がつけられないらしい。
なぜか?
何が僕たちをここまでに稼動させているのだろうか?
一体、何者が僕たちを今、この現在に足枷を繋げているのだろうか?
それは、支配者、権力者、資産家たちではない。
彼らはむしろ、扇動させられている立場にあるのだから。
貨幣経済か?
それは何度も言われ続けられてきたが何の答えも見出させなかった。
欲望か?
いや、それもまた同様。
幻想か?
それもまた、同様。
答えがない。
いや、そもそも答えが必要だったのだろうか?
飢えない、渇かない、寒くない、
それで十分としたのはエピクロス。
これはいけない。
中途半端な教訓じみた文句は今、必要ではない。
しかし、その飢えない、渇かない、寒くないのは、
紛れもなく、ある場にいるある人間のことである以外に何があるのだろうか?
まさに、その場にあるものでどうにかしようという向きはない。
僕はナショナリストではない。
なぜなら、国という単位にいささか疑問だからである。
国なんてものよりもっと小さな単位。
それは、県でもなく、市でもない。
町・・・いや、村くらいでちょうどいいのではないか。
だが、今さら引き返せはしない。
それは大きくなりすぎたからではない。
交通網があまりにも発達しすぎたからだ。
道路は都市に向かおうと田舎に向かおうと関係なく、
様々なモノが輸送され、また消費されてしまう。
開かれるにはまず閉じなければならいのではなかったか?
リベラルとは何だったのか?
エピクロス、スピノザのような周縁の思想家はどこにいるのだろうか?
少なくとも分かったことが一つだけある。
それは、場所、足元がどこにもないということだ。
そして、それにもかかわらず、どうやら立派に歩いているようである。
今のところ違和感もなく。
アテナイの人々に投げかけたソクラテス、
オランダを嘆いたスピノザ、
思想家に普遍性はない。
一体、僕は何に突き動かされてこの文章を書いているのだろうか?