チェーホフは何を見たのか?
生きることを知ったというなら、
それはチェーホフをあまりにも分かっていない。
チェーホフの眠りと老い・・・
夏目漱石の非人情・・・
それらから生まれてくるヴォードビル。
『かもめ』はヴォードビルなんだ。
あの真面目な青年、島から出ない青年、
彼が自殺する結末がヴォードビル。
チャップリンとキートンに聞いてみようか。
『街の灯』のあのラスト、
『キートンの蒸気船』のあのキートンの振り返りざまの顔は、
そう、あれがヴォードビル。
そう、チェーホフの戯曲で、
『かもめ』以後は自殺しない。
なぜか?生きたいからか?
そんな訳はないだろう。
それなら簡単なことだ。
しかし、チェーホフの見たものはそうじゃない。
何かが抜け落ちる。
『三人姉妹』はあのワーニャ伯父さんなんだ。
ワーニャ伯父さんは自殺しなかった。
逃走していた・・しかし、違う器官なき身体になっていた。
それは自己を完全に破壊してしまう。
それが狂気となり、彼はピストルを握る。
しかし、そこからまた逃走線が生まれる。
彼は知ったのだ。
もう一つの器官なき身体を。
また働き出したワーニャ伯父さんはバートルビーに接近してはいないか?
動かない旅・・
そこからの逃走・・・
『三人姉妹』はその逃走されたところから始まっているんだ。
モスクワに逃走できない・・・
そんなのどうでもいい。
彼女たちは、その地にいながら、舞台にいながら、
逃げていく、何かが逃げている。
向き合う途端に引き込まれて飲み込まれてしまうだろう。
『桜の園』もそうだ。
『かもめ』の時、自殺したはずの身体が、亡霊となって蘇る。
『かもめ』のあの真面目な青年は器官なき身体になる前に、
いや、存立平面の抽象機械によって生まれた身体へと生成変化する前に、
死を選んでしまったのだ。
しかし、それを亡霊として蘇ることに成功したのだ。
ニーナは言っていた・・・ごもりながら、
「私はかもめ・・」
そう、『三人姉妹』も『桜の園』もかもめなんだ。
あれは人間じゃない。
手前・・n-1の世界、次元・・・
チェーホフに老いと眠りはつきもの。
難しいのは理性を抱えた人間だった。
それを、あまりにも自我のある人間を解体することの難しさの中にいたのだ。
だから、『かもめ』であの青年を自殺させざるをえなかった。
チェーホフ自身がまだ何かに捉われていたのだ。
しかし、ワーニャ伯父さんの自殺からの逃走が彼を器官なき身体に近づけたのだ。
そしてチェーホフは舞台を意識していたはずだ。
舞台というある場を・・・
それからの逃走はどうすれば・・・
だからこそ、『桜の園』の最後であの老人は出現するのだ。
何かブツブツ言いながら、家の中に残っていた。
チェーホフに空っぽはない。
チェーホフには様々な逃走線が描かれる。
真面目に哲学してみても、
アルコールに浸っても、
眠りに陥り、また不眠になっても、
恋をしても、
それらは抽象機械によって生み出され、
何かが削がれ、また何かが生まれる。
遅れてくる・・三人の姉妹は遅れてやってきていたのだ。
チェーホフの舞台に舞台という場は不思議なものを装う。
彼は舞台から一歩下がれたのだ。
彼は子供に、幼児になれたのだ。
だからこそ、ヴォードビル。
何よりもヴォードビル。
夏目漱石の『草枕』のラストがヴォードビルの極みであるように。
あの女の顔、不人情ではなく、非人情の世界。
それが器官なき身体であること、
抽象という具体性なのであり、現実なのだ。
普段抱える現実だけでは、それは現実とは言えないのだから。
何も比べてごらんと言っているのではない。
変化の中にあるのだ。
差異という反復の中に・・・
チェーホフは見ていたのだ。