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思考そのもののなかで思考するという行為を産み出すべきであろう。


by hey-yo-happyidiot
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マスターベーションの美学

  ニジンスキーの牧神になりきって舞台の上でしたマスターベーション。
  ジョン・ウォーターズの『ピンクフラミンゴ』のマスターベーション。
  ベルトルッチの『ドリーマーズ』でのマスターベーション。

  別にどれがいいのかを比べて言うつもりはないが、
  ベルトルッチのあのシーンでのマスターベーションは完全に疲れきっている。
  というのは、あれは完全に演技だからだ。
  そう、誰にしも仮面はあるが、
  あれはヌーベル・ヴァーグから抜け出せない精一杯の演技だ。
  もう何もできない、
  無力の中にあるマスターべーション。
  あーこの表現という名の限界に破れしものの・・・

  ジョン・ワォーターズの『ピンクフラミンゴ』は『ドリーマーズ』よりずっと前。
  しかし、ここでマスターベーションは生きている。
  させられてもいないし、彼は完全にマスターベーションできているのだ。
  少し高めから撮ったそのショットは、
  彼の表情を映しはしない。
  しかし、彼の声で十分であった。
  それに彼は演技している。しているのを大いに分かっている。
  だが、彼はそこから脱していた。完全に・・・
  別の役者に母親という設定の女優がフェラチオをしている場面。
  ここは、あるお下劣な夫婦への復讐のために
  その夫婦の家でした行為であるが、
  母親が誰かいると言って途中でやめてしまう。
  それに対して、
  「生き殺しか!!最後までやってくれ!!!」
  と大真面目に叫ぶ。
  観ている側は思わず笑ってしまうのだが、
  この時の役者のあまりにリアルなことリアルなこと。
  ある性的な行為が演技を、自己を解体した瞬間と言ってもいい。
  あの叫び、悲痛な懇願は本物だった。
  AVの変に言わされている声とも全く違う。

  しかし、さらに凄まじいのがニジンスキーのマスターベーションだ。
  これはバレエの舞台であり、
  現場を見ることはもうできない。
  しかし、映画があるのでそれを参考にして考えたい。
  牧神になるということ、ある他者が入り込むといういこと・・・
  この時、なぜマスターベーションだったのか?
  それは、マスターベーションそのものがある自己を解体させることが可能なのだ。
  フーコーが分析したマスターベーションさせないための機関があり、
  その成功に喜ぶ大人のことを『性の歴史』の中で確か取り上げていたはずだが、
  これは、理性的な社会なのだ。
  あまりにも、自己を執着させよう、とりつかせようという魂胆。
  なぜなら、マスターベーションは本来何者にもさせない力を秘めているからだ。
  ニジンスキーは牧神になりながら、
  その牧神からも逃れることをしなければならなかったのだ。
  でなければ、彼はたちまちにニジンスキーに引き戻されてしまうのだ。
  他者が入り込む時、その他者がずっと入り込めば、
  その他者が今度は主体化されてしまう。
  そうすれば、牧神という主体が生まれ、
  それは何もニジンスキーと変わりはない。
  同じ主体、統一され、同一化されてしまうのだ。
  しかし、そこから逃走するために、
  ニジンスキーはマスターベーションをする・・・
  確かにマスターベーション以外の方法もあったかもしれない。
  だが、今はなぜマスターベーションをしたのかに留めておこう。
  これは生成変化、アレンジメントの一つではなかろうか?
  
  そういうことより、もしかしたら舞台上でニジンスキーはすでに牧神だったのかもしれない。
  彼は牧神の地層が、主体化されていっている時に、
  そこからの逃走線が出現したのかもしれない。
  おそらく、二度目の解体だったのだろう。
  一度目はニジンスキーという主体を、
  二度目は牧神という他者であったはずのものからの逃走・・・
  牧神という他者、そこからの逃走は容易ではなかったのだ。
  またニジンスキーに戻るという選択肢はなかった。
  もし、ニジンスキーに戻ってもおそらくかつてのニジンスキーではない。
  だから、彼は分裂症になったのか・・・
  これは、他者からの逃走である。
  第三の主体、もしくは第三の他者・・・
  いや、ある何ものか・・・
  それか・・もしくは失われた第三のもの。
  ゆえのマスターベーションという行為なのかもしれない。
  つまり、何かが反復し出すんだ。
  いや、反復せざるをえない。
  それは止まることを忘れてしまったから。
  忘却の中にいる。
  しかし、まだ完全に忘却の中に入り込めていない。
  その忘却、失われし第三・・いや第三ではもはや通じまい。
  そういった主体とその解体の狭間に入り込む時、
  ある認知症の先に見えてくるものを、
  20代の大人が入り込むには、
  マスターベーションという行為しかなかったのかもしれない。
  
  もちろんニジンスキーは舞台の途中でそれを止められたらしいが、
  そのまま続けていたらどうなっていたのだろうか?
  射精とともに彼はまたニジンスキーに戻っていたのだろうか?
  ここからは空想になってしまう。
  しかし、このニジンスキーのマスターベーションは、
  理性というもの、主体というものが植えつけられている大きな地層が
  まだ充実している時に、
  ある入り込んだ他者さえも乗り越える時に、 
  その地層から逃走し、器官なき身体へと移る時に
  起こった出来事なのだ。
  どんどん忘却していき、年を重ねていけば、
  子供になり、時間も空間も独特のものとなり、
  マスターベーションの必要性はなくなる。
  何かを変化させることがもう内在的、
  それはもちろん絶対的《外》から来るわけだが。
  しかし、大きな地層がある時にそれを忘却の中に放り込むとき、
  マスターベーションが起こるのは一つの出来事である。
  もちろん他にも何かがあろう。
  ただ、ここではそう言っておくしかない。
  もはや自己の快楽とは言えないマスターベーションがここにはあった。
  そして、それがいかに性に対する見方を
  「エロ」という言葉が一般化している社会が歪なものにしているのか分かるのではないか。
by hey-yo-happyidiot | 2007-11-06 02:57 | 哲学(philosophie)