思考そのもののなかで思考するという行為を産み出すべきであろう。


by hey-yo-happyidiot
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有象無象

 人間から感情を取ってみよう。人間から一〇八つの煩悩を取り去ってみよう。そこに一体何が残るのだろう。愛だろうか。虚無だろうか。はたまた夢幻か…。

 先日のロッテ戦で球審の判定に不服で内川選手がベンチでバットを叩きつけた。

 私は素人ではあるが、明らかにボールだと思った。しかし、判定はストライク。ホークスファンという贔屓目を差っ引いても、テレビで見ていたけど、あれはボールやないかと思う。だけども、球審の判定は覆られない。絶対である。ならば、いつの日か機械でやればいいという話が出る。機械が誤作動することはないのだろうか?
 話が幾分逸れた。
 どうやら、問題はもっと別のところにあるらしい。それはバットを叩きつけるという物にあたる行為らしい。

 知人がツイッターを見ていると気分が悪くなると言っていた。なるほど、私もその一人である。暴力は何も実際的な、ぶつ、なぐる、たたく・・・といったものだけではない。言葉による暴力があることを当然自覚しなければならないだろう。何でも言ってよしという自由はいいが、言葉によって嫌な思いをすることはある。それが、たとえ見知らぬ、顔も知らぬ存在からのものであったとしても。いや、違う。見知らぬ、顔も知らぬ存在の言葉だからこそ、かえって嫌な思いをさせられるんだと思う。

 また話が逸れた。
 プロだからといって、物にあたるのはよろしくないというのは確かに一理ある。スポーツマンシップなるものを見せるために…。しかし、そんな清廉潔白な正直ものだけで野球をやっていたら、きっとつまらない。審判の判定に不服で怒ったかてええではないか。人間だもの。みつをじゃないが。ともあれ、人間の有象無象を見るのも野球ではないか。誤審だってその一つだ。いいじゃないかと思う。人間である以上、完璧はない。絶対はない。いくらそれを望んだかて、あくまでも重要なのはその過程の有象無象である。
 色川武大の『怪しい来客簿』の「月は東に日は西に」というエッセイの中に、野球選手である木暮選手が、大事な場面で何でもないフライをポロリと落としてしまった場面について次のように書いている。
 「残酷な見世物であるが、私はひどく満足し、木暮の人間的な大失策に拍手を送って帰ってきた。私にいわせれば、これが金を取って他人に見せる野球なのである」(p.229)
もちろん木暮選手には野次なり罵声なりも飛んだことだろう。しかし、こういったことを含めて「人間的な」ものを見ていかなければならないし、ひいては自分においても、「人間的な」ものを常に引き受けていかねければならないだろう。
 だから、私は内川選手のバットを叩きつけた行為もやってはならぬものではないと思う。それだけ悔しいんなら、悔しい「人間的な」気持ちを出してもいいではないか。大人しく、行儀正しく野球をやっているのを見ているより、ずいぶんいいもんだ。それだけ不服な感情を持ったのなら素直に出せばいい。逆に見られていることばかりを意識している人間の方がよっほど信頼ならないことはないだろうか。
 それに、そういった納得のいかない中で生きているのは見ている人間も同じであり、重々承知しているはずである。そのやるせなさをどこに向ければいいのか分からなくなるのは当然ある。我慢を強いることももちろん重要だろうが、そういう状況がなぜ生まれているのかということも同時に見ていかないといけない。
 すると、さっきの私のツイッターに関する意見でも、なぜ彼、彼女らが辛辣な言葉を選択するのかという個人の問題以上に、何が彼、彼女らをそう言わしめているのか考えなければならないだろう。

 例えば、少し話は変わってしまうが、あの3.11に関して知識人たちがああだこうだ言っている中、一人、そもそも「年に三万人が自殺する社会が問題である」と言った合田正人氏のようなスタンスを持つべきではないだろうか。
 目に見えているものばかりに踊らされるのは容易い。しかし、そこには常に光に影があるように、何かが潜んでいる。野球選手がヒーローインタビューで「○○さんのおかげです」というような影の立役者がいるものである。私たちが目を向けるべきなのは影の方ではないだろうか。日の当たるところには自然と目がゆくものだから。
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# by hey-yo-happyidiot | 2012-05-15 03:21
 昨日のホークスの負けは本当に悔しい。久しぶりに野球で放心状態になってしまった。斉藤和己がマウンドに泣き崩れて立てなくなったのを思い出したくらい。それだけのめり込んでしまっている自分にいささか戸惑いを感じつつ、一ファンとしてホークスが染みついているのを改めて感じた次第。

 そんな自分のことより、昨日の痛烈な逆転負けで選手全員の気持ちが一つになればいいと思う。ここ最近、投打がかみ合った試合も少なかったし、のらくらとごまかしごまかし勝ち続けるよりも、ガツンと負けた方がかえってすっきりしていいんではないかと思う。ショック療法というわけではないが、ほんと、これで新たな気持ちで試合に臨んでいけたら、この負けは何勝分にも値するかもしれない。

 よく開幕戦のときに、「負けても144分の1ですから」と言うのを聞く。だからこそ、切り替えて次に臨むことを優先しないといけない…。しかし、サッカーと違って、長丁場のプロ野球にとって、淡々とやることも当然重要なのだろうが、“この試合を機に”という感覚も大事になってくるのではないかと思う。
 去年の優勝ボケがどこか冷めやらぬまま野球を観ていた自分がいるのも確かだった。だからこそ、昨日の負けを機に、気持ちを切り替えてというか、去年のことは去年のこと、自分がじいさんになったときの語り草にすればいいわけで、今年のシーズンを闘うための気持ちの準備がようやく整ったように思う。

 若い人の間では、相変わらずサッカーの方が人気があるようだが、ペナントレースが始まるとほぼ毎日のようにある野球は、負けたら終わりという一発勝負の要素が欠けているのかもしれない。しかし、私はこのプロ野球に、習慣や日常といったものを感じずにはいられない。高校野球だったり、サッカーだったりも、当然それぞれに魅力がある。それらが一試合の重さを当たり前のように感じられるのと引き換え、プロ野球のあの淡々とした感じはどこか気怠いところがあるかもしれない。だが、プロ野球には私たちが日ごろ感じている、多少大仰だが、「生きる」という要素が多分にあると思う。一日一日が地味に積み重なっていく。とある人のとある一日を取り上げてみても、あまり面白いことはないだろうし、何か成長した証を見つけるのは難しいし、何かが変わったということを認識することは厳しいだろう。だけど、その一つ一つが、その一日一日が間違いなくその人自身を変えていることは間違いない。何でもないような一試合。144分の1でしかない一試合。それが積み重なっていくことで、順位が決まっていく。
 そこには当然、大きく変わるチャンスがある。その出来事、衝撃、衝突をいかに受け止めるかがその人の人生を左右すると言っても過言ではないはずだ。
 人生の中で、人前で話して恥ずかしい思いをしたら、もう二度と人前で話したくはないと思うだろうし、一見真面目そうな人に遊ばれてふられてしまえば、人を見るのに猜疑心が生まれてしまうかもしれない。当然、そうじゃない人もいる。まあ、これも経験だと言って、あっさり受け流してしまう人もいるだろう。あるいは、人前でもう恥ずかしい思いをしたくないから、次から準備に時間をたくさん割くようになるかもしれない。いい恋人を見つけるために、自分自身を変えることから始めるかもしれない。
 そうやって、起こってしまった出来事、衝突、衝撃と向き合うことになるのだろう。せっかくなら、できるだけいい方に持っていきたい。とはいえ、ひとえに「いい方」と言っても、何が「いい方」なのかは分からない。しかし、少なくとも、出来事や衝突、衝撃から何かを得るなり、発想の糧、あるいは考え方そのものが変わるならば、それでいいのではないだろうか。

 昨日、蛾が一匹、電車の中に迷い込んだ。若い女性がキャーキャー言いながら席を立って逃げた。夜の横断歩道で自転車と自転車が大きな音を立ててぶつかった。どちらにも人に怪我はなかったようである。
 何でもない常に平常であるはずの電車の中に蛾が迷いこんで起こる出来事。用心すればぶつかるはずのない自転車。しかし、迷い込んだり、自転車がぶつかったりすることはやはり起こりうることである。

 昨日は、日常に侵されすぎて見失ってしまった「異常」を取り戻した一日だったのかもしれない。ファルキーが投げれば無双というわけではなかったのだ。
 これでよかったではないかと思う。これを機に、やはり何か変わっていくだろう、選手たちは。少なくとも私自身は改めて考えさせられることの多かった出来事だったように思う。

 やっぱり、ホークスファンでよかった。
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# by hey-yo-happyidiot | 2012-04-27 04:01

泣いたぜ、渚!!

「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」
という有名な言葉はルキノ・ヴィスコンティの『山猫』の中に出てくる。この相矛盾する言葉は何を示しているのかかくも謎である。
ホークスの新垣渚投手が4年ぶりに勝星をあげた。入団当初から応援していた選手なだけに、喜びはひとしおである。好きな野球のチームを応援しているのは、ただ勝敗に一喜一憂しているわけではない。かつてエースと呼ばれた投手が勝てなくなる、一軍のマウンドにあがることもなくなることがある。しかし、ファンはもう一度マウンドにあがる姿を見たいと思っている。その想いが昨日叶った。それも完投勝利を携えて。
ファンにとって空白の期間、新垣はかつての剛腕を捨て、脱力投法、腹八分目投法を身に着けていた。文章にすればほんのわずかである。しかし、自らのスタイル、信念といってもいいようなものを捨てることはそう容易いことだろうか。かつて勝星を積み重ねてきた投球から離れることができるだろうか。否。これが、冒頭にあげた言葉と何か反響し合うものがあるように思う。
常に何と向き合っているのか、何をすればいいのか分からなくなることがある。しかし、やるべきことは目の前にあるのかもしれない。それは、自らの身体に、精神に問いを投げかけ、その反応、反射を一つ一つ丁寧に感覚していくことではないかと思う。そして、それは時に今まで積み重ねたものを解体してしまうこともあるだろう。それでも、ある核心を感覚するために変わらないといけないのかもしれない。
新垣は初勝利のとき、ヒーローインタヴューで泣いた。昨日も泣いた。そこには違う涙があったのは間違いない。ありがとう、新垣。
次は斉藤和己の番さ。
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# by hey-yo-happyidiot | 2012-04-02 03:14

分け入ること。

 「裏の裏は表」だと言うが本当だろうか。それはただ「裏」とか「表」とかいう意味に苛まされているだけではないだろうか。
 たとえば、ロシア人形みたいなものがどうなるのだろうか。裏にはまた表にある同じ顔がその裏の表にはある。しかし、その裏の表の顔と表の顔は違う。それは単に大きさが違うからといってもことたりるだろう。もしそれを同じだと言うならば、赤ん坊の顔と成人の顔を同じだということに変わりはない。確かに、ともに同じ人物だとしても、そこに微妙な差異なるものがあることは認めなければならないだろう。もしそれでも、それは全くもって同じだというのなら、他者に伺ってみるといいだろう。「確かにこれはあなたの赤ん坊のころの顔かもしれないけど、今とは全然違う顔をしているわね。あら、でも、どこか目元とか口元とかに当然面影はあるわね」と言われることになるのではないか。
 これでも不十分ならば、皮膚の裏の裏はまた皮膚に戻るのだろうか。血管の裏の裏はまた血管の表へと戻っていくだけなのだろうか。
 このあげあしをとったような話は、人が「表」とか「裏」とか言うとき、その二面性、あるいは二元性しか見て取っていないのではないかということだ。さらに分け入っていくという作業があってもいいのではないだろうか。表と裏で循環をさせて喜んでいるのなら、循環そのものに分け入っていくことをお勧めする。
 このことは同時に、問題を「善」と「悪」で分けないことへと向かうであろう。問題なのは、「なぜ」それが善と言われ、悪と言われるのかということだからだ。
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# by hey-yo-happyidiot | 2012-02-16 02:55
月が眩しい。足の下はきっとブラジル。真昼間の炎天下なのだろうか。

年の瀬。毎年のようにやってくる。当然のこと。それにもかかわらず、この時期に人身事故と称する自殺が多くなる。生きている人間にとって、その死は、あくまでもその人個人の、過ぎて故人の事情でしかないと思っている。毎年思う。本当にそうだろうかと。よく現代は死が遠くなったなんて言う人がいるけど、本当にそうだろうか。少なくとも、私はこの頃、出かければ必ずと言っていいほど顔も名前も知らない人の死の知らせを耳にしているようにしか思えない。

今年の夏前くらいだっただろうか。インドで30分に一人の農民が自殺しているというニュースを知る。新自由主義改革に苦しんでのことらしい。死はただ単に個人の内的な問題だけでおさまりはしない。死はその人を取り囲む状況や雰囲気が引き起こしてしまうものではないかと思う。「いかなる物も、外部の原因によってではなくては滅ぼされることができない」(第三部定理四)と言うスピノザの言葉に耳を傾けたくなる。とはいえ、「外部」をどう解釈すべきかという問題は残る。しかし、とにもかくにも、「なぜ死ぬんだ?」とか言って、その人の死を責めることよりも、「なぜその人は自殺しないといけなかったのか」と問うことの方が正当ではないだろうか。確かに、電車に飛び込んだその死と私たちは関係がないのかもしれない。が、しかし、電車に飛び込ませてしまった状況や雰囲気は私たちと共有しているものではないだろうか。

毎日のように歩む駅のホーム。ぶら下がった駅名。時刻表。電光掲示。ベル。アナウンスが流れる。電車がホームに入る。乗車。むわっとした空気。無機質な顔と陽気な顔。トンネル。アナウンス…。きりのない日常が、異常を生むのではなく、すでにその「日常」は「異常」でしかないのだろう。そして、それを見過ごして、通り過ぎてゆく人波。私もその中に埋もれながらどこへゆくのだろうか。

月が眩しい。足の下にはブラジル。真昼間の炎天下の中。
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# by hey-yo-happyidiot | 2011-12-11 02:36